追分ジャズ

jazzydays2010-01-18

寝床に貼りついてた
この数日間。
積ん読の本を
せっせと消化していたが。
音楽は
ただのひとつも
聴こうと思わなかった。
だが。
ある短編小説中で
途方もない音色を
耳にしてしまった。


主人公は31歳・女・アルバイト。
カウンター9席の
小さなバーで
毎日早朝まで働いている。
起伏のあるストーリーではない。
むしろ。
起承転結などゼロに等しい。
いつものバーで
いつものように働いた
早朝の帰り道。
最寄りの公園を
通り抜けようとしている彼女。
昨日と同じルーティンの繰り返し、
のはずが。


≪グラウンドの角をまがったとき、
 いきなり音が破裂した。
 トランペットだった。
 あたり一面の空気をふるわせて、
 力強い音が流れた。
 おそろしくゆっくりの、
 暴力的なまでに巧みな、
 「りんご追分」だった。
 音は空に向かって破裂するようにも、
 地面にしずかにおりていくようにも思えた。
 あたしは動けなかった。
 どうしてだかわからない。
 あたしの心臓が泣き始めた。
 号泣、と言ってもいいような泣き方だった。
 「りんご追分」がしみてしみて、
 早朝の公園で誰かが練習している
 その「りんご追分」に、
 あたしは全身で捕まってしまった。
  (中略)
 そこにあるのはただ公園と、朝と、
 「りんご追分」だけだった。
 清潔な空気と、それをふるわせる
 トランペットの音だけだった。
  (中略)
 あたしはアパートで寝ているはずの
 智也を思った。
 「おやすみなさい」と言った
 男の笑顔を思い、
 その男に抱かれることを
 夢想したあたしを思った。
 そうしながら早朝の公園につっ立って、
 いつまでも続く「りんご追分」を聴いていた。≫


作品はここで終わっている。
この音が
ジャズでないとするなら、
一体、何をもって
ジャズと呼ぶのか。
生々しく、
破壊的で、
唐突で、
不作法で、
この上なく
美しい怪物。
紙の上じゃなく。
もう一度 出会いたい。
カラカラの喉、
カサカサの肌、
からっぽの胃袋。
ワガママなそいつらを
否応なしに黙らせる
圧倒的な音色に。


泳ぐのに、安全でも適切でもありません (集英社文庫)

泳ぐのに、安全でも適切でもありません (集英社文庫)

(文中の引用は上記収録作品『りんご追分』より)