寝床に貼りついてた
この数日間。
積ん読の本を
せっせと消化していたが。
音楽は
ただのひとつも
聴こうと思わなかった。
だが。
ある短編小説中で
途方もない音色を
耳にしてしまった。
主人公は31歳・女・アルバイト。
カウンター9席の
小さなバーで
毎日早朝まで働いている。
起伏のあるストーリーではない。
むしろ。
起承転結などゼロに等しい。
いつものバーで
いつものように働いた
早朝の帰り道。
最寄りの公園を
通り抜けようとしている彼女。
昨日と同じルーティンの繰り返し、
のはずが。
≪グラウンドの角をまがったとき、
いきなり音が破裂した。
トランペットだった。
あたり一面の空気をふるわせて、
力強い音が流れた。
おそろしくゆっくりの、
暴力的なまでに巧みな、
「りんご追分」だった。
音は空に向かって破裂するようにも、
地面にしずかにおりていくようにも思えた。
あたしは動けなかった。
どうしてだかわからない。
あたしの心臓が泣き始めた。
号泣、と言ってもいいような泣き方だった。
「りんご追分」がしみてしみて、
早朝の公園で誰かが練習している
その「りんご追分」に、
あたしは全身で捕まってしまった。
(中略)
そこにあるのはただ公園と、朝と、
「りんご追分」だけだった。
清潔な空気と、それをふるわせる
トランペットの音だけだった。
(中略)
あたしはアパートで寝ているはずの
智也を思った。
「おやすみなさい」と言った
男の笑顔を思い、
その男に抱かれることを
夢想したあたしを思った。
そうしながら早朝の公園につっ立って、
いつまでも続く「りんご追分」を聴いていた。≫
作品はここで終わっている。
この音が
ジャズでないとするなら、
一体、何をもって
ジャズと呼ぶのか。
生々しく、
破壊的で、
唐突で、
不作法で、
この上なく
美しい怪物。
紙の上じゃなく。
もう一度 出会いたい。
カラカラの喉、
カサカサの肌、
からっぽの胃袋。
ワガママなそいつらを
否応なしに黙らせる
圧倒的な音色に。
- 作者: 江國香織
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