アンチ・ウェブ礼賛論

jazzydays2007-06-22

本日は夏至
じめじめ、しとしと、
梅雨らしい天気であったな。


ウェブ2.0礼賛論に
警鐘を鳴らす1冊、
西垣通
『ウェブ社会をどう生きるか』
(2007、岩波新書)を読み、
いろいろと考えさせられた。
ウィキペディアに代表される
集合知「衆愚」に堕する
危険を孕むという指摘には、
確かにうなずける部分がある。


ウェブ社会をどう生きるか (岩波新書)

ウェブ社会をどう生きるか (岩波新書)


内容は情報学・哲学の範疇にまで
広大なジャンルに及び、
およそ新書という
小著では収まりきらぬ
きらいはあるが、
非常に密度の高い1冊。
以下、印象的な部分を抜粋。


≪グーグルやアマゾンによって、
 一般ユーザーがウェブで情報発信する
 機会が増えたのは事実です。
 さらに、広告ビジネスという場に
 無名の一般ユーザーや中小企業が参加し、
 相互交流するようになったことも否定できません。
 とはいえ、そのことと民主主義や平等主義とは、
 ひとまず無関係と考えるべきでしょう。
 (中略)
 グーグルで検索したとき上位に現れるのは、
 概して有名人のブログなどアクセス数の多いサイトです。
 検索上位のサイトはアクセスも増え、
 多くのリンクが張られ、
 それゆえ重要なサイトと見なされて、
 継続して検索上位の常連となります。
 (中略)
 一方、大多数のサイトは、
 情報の大海のなかに呑み込まれてしまい、
 浮かび上がるのは容易ではないのです。
 いったいこれを平等主義と言えるでしょうか。≫


ウェブ2.0の特長として、いわゆる
 「集合知collective intelligence)」なるものが
 よく指摘されます。平たく言えばこれは、
 ウェブで不特定多数の人々が意見交換をし合い、
 専門家をしのぐような知的成果をあげることができる、
 という一種の仮説です。
 そして必ず、ウェブ上の百科事典である
 「ウィキペディア」やオープンソースのOSである
 「リナックス」の例がひかれるわけです。
 (中略)
 私には現在、ウェブ礼賛論が安易に
 既存の専門知を排斥し、
 あらたなウェブ集合知を主張するあまり、
 急速に知の堕落
 生じつつあるのではないか、
 という懸念があるのです。
 具体的に言えば、量産される膨大な
 知識断片の海のなかで、
 真に大切な情報が呑み込まれ、
 忘れられてしまうのではないか、 
 ということです。≫


≪あらゆる情報や知識を網羅的・一元的に集め、
 それを体系化してコンピュータにより
 検索できるようにする、
 といった一神教的な野心
 捨てたほうが賢い、ということです。
 大切なのはわれわれが生き延びていくための
 「知識(wisdom)」であり、
 (中略)
 やたらに機械情報ばかり集積しても、
 かえってその努力の妨げになるだけです。≫


≪ウェブから短い文章をコピーしてきて、
 それらを切り貼りして作成する、
 いわゆる「コピペ・レポート」を書く
 学生が近頃増えてきた、と教師は嘆きます。
 (中略)
 むろん、正確なデータや知識を
 知悉していることは大切なのですが、
 さらに重要なのはそれらを
 迅速・的確に組み合わせ、まとめあげて、
 いま焦点となっている問題を解決にみちびく
 大局的・総合的な能力、
 といったものです。
 それが「知恵」とか「叡智」とか
 いわれる存在であって、
 立派なリーダーといわれる人々は、
 すべてそういう知恵を身につけていることは
 述べるまでもないでしょう。
 (中略)
 ライオンは子どもに狩りの仕方を教えますし、
 アザラシも子どもに泳ぎ方を教えます。
 (中略)
 子どもは生きるために、
 自ら命をかけて学ぶのです。
 ウェブ情報検索をもとに自動的に集合知
 得られるなどといった安易な発想は、
 われわれ人間をいったいどんな
 知の荒野へ連れて行ってしまうのでしょうか。≫


うーむ。
言われれば「なるほど」と感じてしまう。
だが。
私はとりあえず、
このウェブ社会を生きていることを
素直に喜びたい。
ブログというツールを得たことで、
いかに「解放」されたことか。
そして。
かつては出会う可能性が限りなくゼロに近かった
数々の貴重な友たちとも遭遇できたし。


著者・西垣通氏には、
以前、新聞社気付で便りを出したことがある。
氏が作曲家・細川俊夫について
述べていたエッセイを読み、
大いに共感するものがあったので。
画像は頂戴した返信の一部。
万年筆、手書き、官製ハガキよ。
素敵じゃありませんこと?