本日は夏至。
じめじめ、しとしと、
梅雨らしい天気であったな。
ウェブ2.0礼賛論に
警鐘を鳴らす1冊、
西垣通の
『ウェブ社会をどう生きるか』
(2007、岩波新書)を読み、
いろいろと考えさせられた。
ウィキペディアに代表される
「集合知」が「衆愚」に堕する
危険を孕むという指摘には、
確かにうなずける部分がある。
- 作者: 西垣通
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2007/05/22
- メディア: 新書
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内容は情報学・哲学の範疇にまで
広大なジャンルに及び、
およそ新書という
小著では収まりきらぬ
きらいはあるが、
非常に密度の高い1冊。
以下、印象的な部分を抜粋。
≪グーグルやアマゾンによって、
一般ユーザーがウェブで情報発信する
機会が増えたのは事実です。
さらに、広告ビジネスという場に
無名の一般ユーザーや中小企業が参加し、
相互交流するようになったことも否定できません。
とはいえ、そのことと民主主義や平等主義とは、
ひとまず無関係と考えるべきでしょう。
(中略)
グーグルで検索したとき上位に現れるのは、
概して有名人のブログなどアクセス数の多いサイトです。
検索上位のサイトはアクセスも増え、
多くのリンクが張られ、
それゆえ重要なサイトと見なされて、
継続して検索上位の常連となります。
(中略)
一方、大多数のサイトは、
情報の大海のなかに呑み込まれてしまい、
浮かび上がるのは容易ではないのです。
いったいこれを平等主義と言えるでしょうか。≫
≪ウェブ2.0の特長として、いわゆる
「集合知(collective intelligence)」なるものが
よく指摘されます。平たく言えばこれは、
ウェブで不特定多数の人々が意見交換をし合い、
専門家をしのぐような知的成果をあげることができる、
という一種の仮説です。
そして必ず、ウェブ上の百科事典である
「ウィキペディア」やオープンソースのOSである
「リナックス」の例がひかれるわけです。
(中略)
私には現在、ウェブ礼賛論が安易に
既存の専門知を排斥し、
あらたなウェブ集合知を主張するあまり、
急速に知の堕落が
生じつつあるのではないか、
という懸念があるのです。
具体的に言えば、量産される膨大な
知識断片の海のなかで、
真に大切な情報が呑み込まれ、
忘れられてしまうのではないか、
ということです。≫
≪あらゆる情報や知識を網羅的・一元的に集め、
それを体系化してコンピュータにより
検索できるようにする、
といった一神教的な野心は
捨てたほうが賢い、ということです。
大切なのはわれわれが生き延びていくための
「知識(wisdom)」であり、
(中略)
やたらに機械情報ばかり集積しても、
かえってその努力の妨げになるだけです。≫
≪ウェブから短い文章をコピーしてきて、
それらを切り貼りして作成する、
いわゆる「コピペ・レポート」を書く
学生が近頃増えてきた、と教師は嘆きます。
(中略)
むろん、正確なデータや知識を
知悉していることは大切なのですが、
さらに重要なのはそれらを
迅速・的確に組み合わせ、まとめあげて、
いま焦点となっている問題を解決にみちびく
大局的・総合的な能力、
といったものです。
それが「知恵」とか「叡智」とか
いわれる存在であって、
立派なリーダーといわれる人々は、
すべてそういう知恵を身につけていることは
述べるまでもないでしょう。
(中略)
ライオンは子どもに狩りの仕方を教えますし、
アザラシも子どもに泳ぎ方を教えます。
(中略)
子どもは生きるために、
自ら命をかけて学ぶのです。
ウェブ情報検索をもとに自動的に集合知が
得られるなどといった安易な発想は、
われわれ人間をいったいどんな
知の荒野へ連れて行ってしまうのでしょうか。≫
うーむ。
言われれば「なるほど」と感じてしまう。
だが。
私はとりあえず、
このウェブ社会を生きていることを
素直に喜びたい。
ブログというツールを得たことで、
いかに「解放」されたことか。
そして。
かつては出会う可能性が限りなくゼロに近かった
数々の貴重な友たちとも遭遇できたし。
著者・西垣通氏には、
以前、新聞社気付で便りを出したことがある。
氏が作曲家・細川俊夫について
述べていたエッセイを読み、
大いに共感するものがあったので。
画像は頂戴した返信の一部。
万年筆、手書き、官製ハガキよ。
素敵じゃありませんこと?