濃ゆい第九

料理も音楽も洋服も男(?)も味つけは濃厚好みである。
薄味の上品さがわからない下賎の民!と
ののしりたくば、ののしるがよかろう。
あ、でも漬物と梅干は薄味が好き。どうでもいいけど。


たとえばクラシック音楽
モーツァルトを例にとってみよう。
今年は彼の生誕250年だそうで、
さまざまな催しが予定されているようだ。
先日は「すわ、モーツァルトの遺骨発見か?」との
ニュースが流れたが、現時点で真偽は不明。
まあ、それは研究成果を待つとして。


モーツァルトの時代、音楽は貴族の嗜好品であり、
彼らの豪奢なサロンにおいて、
少人数で演奏されるものだった。
それが19世紀以降、貴族と一般市民との
文化水準と経済力の差が縮まり始めると、
音楽を愛好する人間の数は飛躍的に増大。


サロンでちまちま演奏していた室内楽的な音では
多くの聴衆を満足させることが不可能になり、
必然的に楽器は、より大きく輝かしい音色を
出せるものへと改善されていく。
ヴァイオリンの弦を例に挙げれば、
かつて羊の腸で作られていたものが、
金属にとってかわられた。
音楽会の場も当然、広さが求められるようになる。
となれば、オーケストラの人員もどんどん膨らんでいく。


そして20世紀半ばには、キャパ1000〜2000人のホールにおいて、
モーツァルト交響曲を総勢100名のオーケストラで
大音量で演奏することが、ごくごく当たり前の風景になった。
ところが。
世紀末に賢しらな音楽学者なる輩どもが跋扈しだし、
「これはモーツァルトの時代に演奏されていたモノとは
全くかけ離れた大間違いの演奏である!」と
猛然と反旗を翻し始めたのだ。
いわゆる「古楽器ムーブメント」である。


彼らはモーツァルトが生存していた頃に
使用されていたと思われる楽器を考古学的に復元し、
それらを用いて「当時」の音色を聴衆に啓蒙しようと躍起になった。
エジキにされた「素材」はモーツァルトに限らない。
バッハ、ヘンデルベートーヴェンなど、
大作曲家たちの多くが考古学の対象とされた。


そして私たちが得たものとは。
「ピアノでバッハを演奏するなんてダッセ〜!」
「100人ものオケでベートーヴェン? 時代錯誤もはなはだしい!」
「昔は男がアルトやソプラノに匹敵する声を出してて、
女は歌わなかったんだぜ!」
等々、それまでの演奏手法を非難・中傷・罵倒する声・声・声。
あっという間に、少人数で、低く小さくかすれた音しか出ない楽器を
ギコギコ言わせながら「考古学的」演奏を繰り広げる団体が
雨後のタケノコのごとく跳梁した。


私も当初は、それら古楽器オーケストラの
試行錯誤を好ましい目で眺めていた。
彼らによるベートーヴェンの”第九”を実際に耳にするまでは。
少々話がズレるが、1990年代の終盤に、
「人類最大の発明は?」に類するアンケートをよく目にしたものだ。
回答は飛行機、ロケット、電話、インターネットなど、
文明の利器が大半を占めていたが、中に「モーツァルト」が
含まれていたのが印象的だった記憶がある。
なるほど。彼は確かに人類の偉大な発明の一つであろう。
ここで話は元へ戻る。
私にとって「人類最大の発明」とはベートーヴェンの第九に他ならないのだ。


さて。古楽器界を代表する指揮者、ロジャー・ノリントン
フランス・ブリュッヘンによる”第九”のCD2枚を買って聴いてみた。
結果は。
ただただ唖然・呆然・愕然とするばかりであった。
なんだこりゃ?
スピーカーから聴こえてきたのは、
ダイエットしすぎて、骨までスカスカになっちゃった
骨粗しょう症の”第九”であった.....。
あの、聴くたびに胸が高鳴らずにはおられぬ、
精神が高揚せずにはおられぬ、
ベートーヴェン最後の、そして最大、最高の交響曲が。
私の大事な「人類最大の発明」が。
こんなにも醜くデフォルメされて。
(奴らに言わせれば20世紀的解釈の演奏こそが
アナクロなデフォルメなのだろうが。)
ひどい。ひどすぎる。
確かに、この演奏法には「考古学的」意味があるんだろうよ。
しかし、これを聴いて草葉の陰のベトさんが喜ぶのだろうか?


それでも、ここ数年は揺り戻し現象も起きている。
あまりに「改革」が行き過ぎれば、
どこの世界でも反動が起きるもの。
クリスティアンティーレマンを筆頭格に、
昔ながらの(=いわゆる20世紀半ばの)巨匠指揮者を
彷彿とさせる演奏に挑む者たちが現れ始めたのだ。


もう何年前になるだろう。
指揮者・新通英洋(しんどおり・ひでひろ)が
読売日本交響楽団に客演し、
モーツァルトの39番だか40番だかを演奏したことがあった。
もちろん総勢100名近いフル・オーケストラで、
輝かしく大きな音色を持つ現代の楽器を用いて。
その模様を私はTVで見ていたのだが、
演奏会を前に抱負を語る新通氏に、
思わず「アンタはエライっ!」と叫んでしまった。
彼は古楽器全盛の20世紀末クラシック界に
一石を投じる意図をこう語ったのである。
モーツァルトが現代に生きていて、
僕らの演奏を聴いたら、きっと喜んでくれると思う」と。
ああ、この人なら、きっと”第九”も素晴らしい味つけだろうなあ。
残念ながら、彼の"第九”にはまだ接する機会がないけれど、
頼もしい発言に、大いに力づけられたのをよく覚えている。


昨年末は公私共バタバタしていて、年の瀬恒例行事の
”第九”を聴き逃してしまった。
まだ年が明けたばかりで、ちょっと気が早いけど、
今年の暮れこそは「濃ゆい」”第九”を聴いてやるぞっと。