魔の範疇

jazzydays2018-11-05

録音にせよ。
生演奏にせよ。
天才以外の
音楽は聴かん。
時間とカネと労力のムダ。
不肖キツネにとって。
天才の定義=デモーニッシュ。
以上。
文字通り。
悪魔に魂を
売り渡して得た音色。
ピアニスト、
故・中村紘子
「99%の神聖なるものへの
奉仕、献身と、
1%の悪魔の血の一滴の
混じったもの」
と語っていた。


音楽のみならず、
文学も美術も同様である。
魔の範疇の住人ゆえ、
往々にして芸術家は早世する。
そもそも。
天界から下界に
もたらされたミューズの
依童=下僕だし。
以下、
三島由紀夫の文章を引用。
けだし慧眼。


《ほんとうの文学は、
人間というものがいかにおそろしい
宿命に満ちたものであるかを、
何ら歯に衣着せずに
ズバズバと見せてくれる。
しかしそれを遊園地の
お化け屋敷の見せもののように、
人をおどかすおそろしい
トリックで教えるのではなしに、
世にも美しい文章や、
心をとろかすような
魅惑に満ちた描写を通して、
この人生には何もなく
人間性の底には救いがたい悪が
ひそんでいることを
教えてくれるのである。
そして文学はよいもので
あればあるほど
人間は救われないということを
丹念にしつこく教えてくれるのである。
そして、もしその中に
人生の目標を求めようとすれば、
もう一つ先には
宗教があるに違いないのに、
その宗教の領域まで
橋渡しをしてくれないで、
一番おそろしい崖っぷちへ
連れていってくれて、
そこで置きざりにしてくれるのが、
「よい文学」である。》


若きサムライのために (文春文庫)

若きサムライのために (文春文庫)


不肖キツネ、
ことクラシック音楽に関しては
社会主義圏出身の
演奏家が圧倒的に好みであった。
テンシュテット
ケンペ、
コーガン、
ギレリス、
フェドセーエフ
スピヴァコフ、
トレチャコフ、
ジューコフ
シフラ、
フリッチャイ
アンダetc.
かつての神なき国々。
ソ連時代の
代表的作曲家、
ハチャトゥリアン
こう言っている。


《私にとって作曲することは
祈るようなものだ。
作曲する時の私は
恍惚状態にある。
そして聞こえてきたものを
書くのだ。》


まさに。
音楽の女神のささやきを
「お筆先状態」で
書きとめているようではないか。
神なき国にも
神は降り立つ。
魔の範疇は万国共通。
どこにでも現れ得る。
おそらく。
我ら人類が存在する限り。
永遠に。